ベーシックインカムについて思った
2020/05/16
ベーシックインカムという言葉を知り、そのことで夫に色々教えてもらいながら色々会話してて、妙に腑に落ちたことがあったので忘れたくないので覚え書き。
月々みんなが生活できる最低限のお金が支給されるベーシックインカムという経済政策。
(らしいんだけど間違ってるとか詳しく知りたい人は自分でお調べを〜)
最低限働いて、働かない人は働かなくてもいいし、寄付?とかしてもいいし、その上でもっと働きたい人や自己実現したい人は好きにやればいい。
懸念されるのが、みんなが怠け者になっちゃうんじゃないか?てことらしい。
そこでわたしは、
日本人は人の役に立つのも好きだし外側に承認欲求を求めるから、そういうことにはならないだろうね〜。
と話す。
そいでベーシックインカムの前に、コロナ騒ぎで世界中の環境がきれいになってる、て話もしてて。
中国やインドの大気しかり。
イタリアの観光客が減った運河しかり。
そうか、経済(大量消費社会)いっしょうけんめいすると、環境も汚れちゃうから、経済やめればいいんだ。
まあやめることはできないから。
つまりベーシックインカムは環境にもいいっていうことだよね。最低限の環境汚染で済むように。
みんながんばり過ぎて働かなければ…なるほど!
本来の経済の言葉の意味に立ち返ればいいんだね。たすけあいだ。
ここまで話して、頭にまんがみたく電球が浮かぶ💡
そうか、なんでわたしがここまで働かない、てことをやり通してきたかわかったわ。
吉本ばなながさ、いつから日本人は、何者かにならなきゃいけない病になっちゃったんだろう?て言ってて、わたしもほんとそれを思ってたわけ。
だから、何者でもないつーちゃんていうのを通したくて、社会的に生産性がなくても、それでも生きてるんだ、てことを提示したかったんだ。(誰にかは不明)
あたしって最先端だったのかもね。
なるほど〜
て1人で納得した土曜日でした。
ベーシックインカムがもし導入されて生活の不安がなくなったら、とりあえず働かなくてもいい。
仕事に対して、自己確認、自己価値、承認欲求を求める必要もなくなる。
自分は自分のままで価値がある。
生命そのものに意味がある、と自己を振り返る機会になる。
社会貢献に囚われる必要もない、が、心からしたいと思えることに向かっていける。
自分を大切にして満たした上で、心から人に提供したいと思うものだけ提供しあう社会、そういうことを始めようということなんじゃない?と話したら、夫も一応そうか!と聞いてくれました。
読んでる人いるかわかんないけど、戯言ですからどうか流してください〜
実母にしつこく言われてた、働かざるもの食うべからずに逆らいたかった意味が、わかったような気がしたんだな。
主婦と子育てていう大変なお仕事してるけどな!
まあ長くなりそうなんでこの辺で!
このことだけはアウトプットしないと脳味噌つまりそうだったんで慌てて書いた。
自分を愛でよう。
振り向いてほしい
例えばこんな感じ。
多くのタスクや業務をバリバリこなして動きが大きい人と、暮らしはのんびりめで1日の主だった予定はできるだけ1つまでという人の間に、なんら優劣は無い。
好きでやっていることだから、誇示したくてとか誰かに承認してほしくてやっているわけではないから。
自分ができることを各々やっているだけだから、わたしはそう思う。
わたしなんかはそのふたつでいくと明らかに後者だけど、自分の器の小ささをよーく自覚している。
できることをできる人がやっているだけとはいえ、偉業を成し遂げている人や、ハードな業務をこなしてる人のことはもちろん尊敬する。
自分にはできないことだ。
でも、つーちゃんはつーちゃん。
夫の妻であることに大満足。
こどもたちの母であることに大満足。
そして自分が自分であることに大満足。
それらが、特に自分に大満足なことに関しては、根拠は一切ない。
こどものころから今に至るまで、その時々で振り向いてほしい人や事柄は色々いたりあったり。
親とか、ともだちとか、好きな人とか。
仕事で誰よりも売り上げたたきたいとか。
でも誰がどれだけわたしを見てくれようと、わたしは結局だめだった。
そして人は離れていったり自分から遠ざかったり。
特に人間関係はつーちゃんがずっと最も苦手とする分野だった。
距離感がわからないのだ。
四十路を過ぎてようやく気がついたのは…
つーちゃんが、心の底から、どーしても振り向いてほしくて仕方ない人なんて…
つーちゃんの他には誰もいなかったということだ。
つーちゃんは、ずっとずっと、つーちゃんに振り向いてほしくてしかたなかった。
そのことに気がついたから、もう嬉しくて。
自分が自分であることが嬉しいと気がついたので、根拠は要らなくなった。
あんだけ外側に探し求めていたものが、ここにしかなかったなんてな。
実は最近では、自己肯定感うんぬんかんぬんという話も、飽きてしまった(笑)
(つーちゃんは超あきっぽい…)
そもそも、自己肯定感が低くてなにが悪いのかな?そんな自分ごと愛せよ、て思っちゃう。
今なら、自己否定しちゃうんだね~。
そんなつーちゃんでもつーちゃんは好きだよ。て言ってあげられる。
別に悟っちゃいないしごっちゃごっちゃ悩むけどさ、自分を生きれることがうれしいって一度めちゃんこ感じちゃうと、ふとそこに帰れてしまう。
排除するな。
解決しようとするな。
共にあれ。
解決なんて所詮心のありようでしかないんだ。
解決を義務のようにするべきなんて自分を責めるな。
生きてる限り絶対になにかある。
抱えながらもしあわせであるほうがいい。
と、つーちゃんがつーちゃんに言う。
器の小ささて、しあわせを感じる器でもあるかもなあと思うんだよね。
すぐ満たされて安上がりだけど、いいじゃん。
これらのことはわたしの40年の経験からわたしなりに得たこたえで、人に押し付けたり強制したりするものではありません。
あくまでわたしなりの思ったこと。
そしてつーちゃんは超あきっぽいので、結果も経過。
こたえなんてまたころころ変わるかもね(笑)
振り向いてほしい
例えばこんな感じ。
多くのタスクや業務をバリバリこなして動きが大きい人と、暮らしはのんびりめで1日の主だった予定はできるだけ1つまでという人の間に、なんら優劣は無い。
好きでやっていることだから、誇示したくてとか誰かに承認してほしくてやっているわけではないから。
自分ができることを各々やっているだけだから、わたしはそう思う。
わたしなんかはそのふたつでいくと明らかに後者だけど、自分の器の小ささをよーく自覚している。
できることをできる人がやっているだけとはいえ、偉業を成し遂げている人や、ハードな業務をこなしてる人のことはもちろん尊敬する。
自分にはできないことだ。
でも、つーちゃんはつーちゃん。
夫の妻であることに大満足。
こどもたちの母であることに大満足。
そして自分が自分であることに大満足。
それらが、特に自分に大満足なことに関しては、根拠は一切ない。
こどものころから今に至るまで、その時々で振り向いてほしい人や事柄は色々いたりあったり。
親とか、ともだちとか、好きな人とか。
仕事で誰よりも売り上げたたきたいとか。
でも誰がどれだけわたしを見てくれようと、わたしは結局だめだった。
そして人は離れていったり自分から遠ざかったり。
特に人間関係はつーちゃんがずっと最も苦手とする分野だった。
距離感がわからないのだ。
四十路を過ぎてようやく気がついたのは…
つーちゃんが、心の底から、どーしても振り向いてほしくて仕方ない人なんて…
つーちゃんの他には誰もいなかったということだ。
つーちゃんは、ずっとずっと、つーちゃんに振り向いてほしくてしかたなかった。
そのことに気がついたから、もう嬉しくて。
自分が自分であることが嬉しいと気がついたので、根拠は要らなくなった。
あんだけ外側に探し求めていたものが、ここにしかなかったなんてな。
実は最近では、自己肯定感うんぬんかんぬんという話も、飽きてしまった(笑)
(つーちゃんは超あきっぽい…)
そもそも、自己肯定感が低くてなにが悪いのかな?そんな自分ごと愛せよ、て思っちゃう。
今なら、自己否定しちゃうんだね~。
そんなつーちゃんでもつーちゃんは好きだよ。て言ってあげられる。
別に悟っちゃいないしごっちゃごっちゃ悩むけどさ、自分を生きれることがうれしいって一度めちゃんこ感じちゃうと、ふとそこに帰れてしまう。
排除するな。
解決しようとするな。
共にあれ。
解決なんて所詮心のありようでしかないんだ。
解決を義務のようにするべきなんて自分を責めるな。
生きてる限り絶対になにかある。
抱えながらもしあわせであるほうがいい。
と、つーちゃんがつーちゃんに言う。
器の小ささて、しあわせを感じる器でもあるかもなあと思うんだよね。
すぐ満たされて安上がりだけど、いいじゃん。
これらのことはわたしの40年の経験からわたしなりに得たこたえで、人に押し付けたり強制したりするものではありません。
あくまでわたしなりの思ったこと。
そしてつーちゃんは超あきっぽいので、結果も経過。
こたえなんてまたころころ変わるかもね(笑)
どんぐりぼうや
わたしとたいちゃんの会話。
おっかさん、ぼくがどんぐりになっても見つけてくれる?
うん、きっと見つけるよ。
多分いちばんかわいいと思うから。
ぼくがクッキーになったら?
食べてひとつになってずっと一緒にいよう。
おっかさんがたいこになったらたたいてもいい?
いいよ。
そしたらおっかさんきっとたのしいきもちになると思うから。
ばかな子ほどかわいいってアレ
自分が愚かであればあるほど愛しいよ。
果てしなく愚かであってもいいと、
この思いつきにとても安心している。
もう贅肉すらも手放したくないほど
たまらなく愛しい(笑)
手放したり断捨離したりが流行りだけど
この肉手放すものか。
あたし、おかあさんだから…?
絵本作家の方が作詞した「あたし、おかあさんだから」的な歌の詞の内容が炎上してるとかしてないとか、らしいですね。
聞きかじり、ネットのニュースとかで見かじりの知識で発言してかたじけない。
お母さんだけにガマンとか犠牲を強いる内容、みたいなことで批判されてるらしい。
ざっくり覚えてる内容をふんわり言いますと。
あたし、おかあさんだから
すきなおかずをこどもにゆずる、、、
だとか
明け方眠くてもがまんして起きる、、、
とかそんなような内容のようで。
最後に
「あなたにあえてよかった」(こどものこと)
で終わるらしい。
ほほう〜
それを逆手に取って
SNS上では
#あたしおかあさんだけど
#おれおとうさんだけど
みたいなタグが続々出現してるとか。
#あたしおかあさんだけど
すきなおかずはぜったい食べる
#あたしおかあさんだけど
飲み会めっちゃいく
#おれおとうさんだけど
おれのおもちゃもこどものおもちゃも買う
覚えてる範囲だとこんなかんじみたいです。
おもしろいね!
まあでも
おかあさん「だけど」だと
否定の上に成り立ってる文章なわけで
おかあさんとはがまんするもの、というのが前提にある上での「だけど」になっちゃうよなあとあまのじゃくなわたしは感じてしまう。
だったらいっそタグも
#あたしおかあさんだから
のままでいいんじゃないかな?
#あたしおかあさんだから
ライブにいってめちゃんこ楽しむの
あたしおかあさんだから
お酒大好き毎晩飲んでるの
あたしおかあさんだから
昼まで寝てるの
あたしおかあさんだから
スキヤキでも豚汁でもお肉は自分に多くよそっていちばん食べるの
あたしおかあさんだから
ランチに行って家族の誰よりおいしいもん食べてんの
あたしおかあさんだから
こどもの相手は上手なおとうさんとか家族にいっぱいお願いするの
あたしおかあさんだから
温泉行ったらいちばん長湯するの
あたしおかあさんだから
家族の太陽だから
にこにこしあわせでいることがいちばんのおしごとなの
我こそ家庭の太陽神、卑弥呼なり
あたしおかあさんだから
おうちの中でいちばんじぶんのごきげんがだいじなの♡
いっそこんな歌ならむしろ清々しいな〜と思って頭の中であれこれ歌詞考えちゃった。
ふざけるな、とかって逆に炎上するのかなあ?
この歌に関して聴いたこともないのに全否定も全肯定もできないですが、、
まあでもこどもって、あなたのためにがまんした〜とか言われてもうれしくないよね。
感謝と罪悪感は紙一重。
小さい子を育ててるうちは、心身ともにがまんすることがたしかに山ほどあるし、こどものためならがんばれるってのもたしかにある。
あたしも家族の笑顔になにより心和むし家族がしあわせならあたしもしあわせ。
だから極端には走れないけど
我こそ家庭の太陽神卑弥呼なり
てとこはいつも思ってるし(笑)
女の人はみんな思ってほしいなあ。
近頃のむすこの発言と豪雪事情。
4歳のボキャブラリーと愛はおもしろい。
ふとん乾燥機でふとんを温めてたら
「おっかさん、いつもふとんをあったかくしてくれてありがとうね」
おっかさんとよばれて必要以上にニッコリしてなあに〜?てやさしく応えたら
「いつもきれいな顔してくれてありがとうね」
手を煩わされる。
困らせられるしこいつひどいことばっかするー‼︎
と思いがちだけど、
暴言の多いわたしに比べてよっぽとやさしいことばをかけてくれるたいちゃん4歳です。
幼少期に青森に住んでた夫曰く、八戸なみの積雪だね、てくらいの雪が降る今年のサンイン。
たいじろーとわたしは近所の公園で雪遊びに狂ってます。
雪山には連れて行けなくて連れて行きたい気持ちがあるから勝手に残念だけど、日常にセンスオブワンダーがあるのは最光だ。