振り向いてほしい
例えばこんな感じ。
多くのタスクや業務をバリバリこなして動きが大きい人と、暮らしはのんびりめで1日の主だった予定はできるだけ1つまでという人の間に、なんら優劣は無い。
好きでやっていることだから、誇示したくてとか誰かに承認してほしくてやっているわけではないから。
自分ができることを各々やっているだけだから、わたしはそう思う。
わたしなんかはそのふたつでいくと明らかに後者だけど、自分の器の小ささをよーく自覚している。
できることをできる人がやっているだけとはいえ、偉業を成し遂げている人や、ハードな業務をこなしてる人のことはもちろん尊敬する。
自分にはできないことだ。
でも、つーちゃんはつーちゃん。
夫の妻であることに大満足。
こどもたちの母であることに大満足。
そして自分が自分であることに大満足。
それらが、特に自分に大満足なことに関しては、根拠は一切ない。
こどものころから今に至るまで、その時々で振り向いてほしい人や事柄は色々いたりあったり。
親とか、ともだちとか、好きな人とか。
仕事で誰よりも売り上げたたきたいとか。
でも誰がどれだけわたしを見てくれようと、わたしは結局だめだった。
そして人は離れていったり自分から遠ざかったり。
特に人間関係はつーちゃんがずっと最も苦手とする分野だった。
距離感がわからないのだ。
四十路を過ぎてようやく気がついたのは…
つーちゃんが、心の底から、どーしても振り向いてほしくて仕方ない人なんて…
つーちゃんの他には誰もいなかったということだ。
つーちゃんは、ずっとずっと、つーちゃんに振り向いてほしくてしかたなかった。
そのことに気がついたから、もう嬉しくて。
自分が自分であることが嬉しいと気がついたので、根拠は要らなくなった。
あんだけ外側に探し求めていたものが、ここにしかなかったなんてな。
実は最近では、自己肯定感うんぬんかんぬんという話も、飽きてしまった(笑)
(つーちゃんは超あきっぽい…)
そもそも、自己肯定感が低くてなにが悪いのかな?そんな自分ごと愛せよ、て思っちゃう。
今なら、自己否定しちゃうんだね~。
そんなつーちゃんでもつーちゃんは好きだよ。て言ってあげられる。
別に悟っちゃいないしごっちゃごっちゃ悩むけどさ、自分を生きれることがうれしいって一度めちゃんこ感じちゃうと、ふとそこに帰れてしまう。
排除するな。
解決しようとするな。
共にあれ。
解決なんて所詮心のありようでしかないんだ。
解決を義務のようにするべきなんて自分を責めるな。
生きてる限り絶対になにかある。
抱えながらもしあわせであるほうがいい。
と、つーちゃんがつーちゃんに言う。
器の小ささて、しあわせを感じる器でもあるかもなあと思うんだよね。
すぐ満たされて安上がりだけど、いいじゃん。
これらのことはわたしの40年の経験からわたしなりに得たこたえで、人に押し付けたり強制したりするものではありません。
あくまでわたしなりの思ったこと。
そしてつーちゃんは超あきっぽいので、結果も経過。
こたえなんてまたころころ変わるかもね(笑)